社会とは何か。今回は、この問いに対して考えてみようと思います。元々、「社会」と言う言葉は日本語由来の言葉ではありませんが、私自身が考える社会というものについて書きたいと思います。「社会」と言った時に、確かに一人の社会や二人の社会というものも考えることは出来ますが、社会というものは本来そのようなものではないと私は思います。ある集団のことを社会と言えるためには、前提として第三者の存在が必要であると私は考えます。私が、一人や二人の社会というものを想定できない理由は、一人や二人というあり方は私的な(private)存在や関係のみを表しているからです。例えば、ある集団(クラス)があったとします。その集団の中の全員がそれぞれグループを作ろうとすると、必ずと言ってよいほど「仲間外れ」が出来てしまいます。私は、集団の人数が偶数か奇数かといった数の問題を言おうとしているわけではありません。集団の人数が偶数であろうと奇数であろうと、仲間外れは生じてしまうのです。では、仲間外れが出来ないようにするためにはどうすれば良いのでしょうか。様々な考え方があると思います。勿論、集団の全員がいわゆる「非同盟中立」の立場をとるということも考えられます。つまり、全員が誰とも強い関係を結ばずに、個々人の立場を取るという考えです。しかし一方で、全員がそのような立場を取ったとしても個々人の間に声の大きさ(発言力)の差というものが出てきてしまいます。また、自分一人の力だけでは物事を行うことが出来ない時に、他人と協力関係を築くことが難しくなってしまいます。そこでもう一つ考えられるのは、集団の全員が「非人称」の立場を取るという考えです。非人称というのは、人称がはっきりしないことを言います。例えば、「雨が降る。」という文は意味的に主語がはっきりと分かりません。しかし、文全体が何を意味しているのかは分かります。人間同士の関係で言えば、非人称の関係に最も近いのは家族の関係だと言えるのではないかと私は思います。家族は、人間が生まれてからおそらく最初に出会う関係だと思います。人間は、生まれた最初の時から人称をはっきりと区別しているわけでは決してありません。そうではなく、他の人間との関係や社会の中に生きることによって徐々に「私(僕)・あなた(君)」や「知っている人・知らない人」という人称が形作られていくのだと私は思います。つまり家族というものは、人称が出来上がらないうちから付き合っている数少ない存在の一つなのです。私は、この家族の関係というものは人間が生まれてから育っていく過程において、人間が共通して持っているものなのではないかと考えます。勿論、様々な家族がありますし、生まれながらにして家族を失っている人がいるのも事実です。しかし、個々の差はあるとしても人間は家族の関係を生きるポテンシャル(潜在性)を持っていることは確かだと思います。現実の家族がどのような家族であるにせよ、あらゆる人間は、「家族」という生き方を潜在的に知っているのだと思います。つまり、「社会」という言葉には大きく分けて二つの意味が含まれていると私は思います。一つは、社会というものはいわゆる「二人の関係」ではないということです。もしも世界が多くの「二人の関係」だけによって成り立っていたとしたら、人間は生まれてからずっと社会というものに触れることなく生きることになると思います。「二人の関係」には含まれない第三者の存在があるおかげで、人間は社会というものを発見することが出来ます。考えてみれば、自分の親も最初は自分にとって第三者だったのかもしれません。第三者の存在が無ければ、人間はそもそもこの世界に飛び込むことが出来ないと思います。自分と世界とを媒介してくれる第三者の存在がなければ、社会に飛び込んだとしても恐怖の感覚しか持つことが出来ないのではないかと思います。「社会」という言葉の持つ二つ目の意味は、社会というものは非人称と人称の「境界」だということです。社会という言葉はしばしば、「国際社会」や「高齢化社会」などといったあたかも社会という実体があるかのような用いられ方をしていますが、私は、社会とは必ずしも実体があるものだとは思いません。社会とは強いて言えば、境界のことであると私は思います。今まで知らなかった場所に足を踏み入れることは、境界を越えるということです。境界を越えることによって初めて、新しい景色が見えるようになるのです。その景色は、今まで境界の向こう側で想像していたものとは全く異なるはずです。一人でも多くの人が、「二人の関係」(私的な関係)から脱して自分の境界を越えて、社会という新しい景色を見ることが出来るようになることを私は願っています。全員が第三者となり、そして全員が家族となることが可能な世界を作らなければならないと私は強く思います。そのような世界こそが、「仲間外れを生じさせない世界」に他ならないのですから。